栗山組のはじまり
戦後の混乱期、わずかな人手と強い信念から始まった栗山組。
創業者・栗山虎蔵が仲間と共に歩んだ復興の道には、
「地域のために働く」という確かな想いが息づいています。
当時の写真とともに、街づくりの原点をたどります。
立ち上がる力
戦後の混乱から始まった挑戦


創業の原点
昭和24年・1949年戦後の混乱がまだ色濃く残る昭和24年4月。
栗山 虎蔵は「栗山組」を創業した。
数十名の人夫を集め、鳥取の大手企業の下請けとして現場を渡り歩いた。
あるときは、台風被害の復旧。あるときは、急な災害対応。
どんな無理難題の現場でも、栗山は即座に人を集め、現場をまとめ、仕事をやり遂げた。その迅速な采配と責任感が評判を呼び、栗山組は瞬く間に地元で名を知られる存在となった。
ちょうどその頃、日本は戦後復興の真っただ中。
鳥取電話局や富士銀行支店、水洗便所や水道、ガス付きの県営アパートなど、新しいインフラが次々と整備されていった。
栗山組も、その時代の波に乗って大きく成長していった。


「もはや戦後ではない」
昭和31年・1956年昭和31年、経済企画庁が「もはや戦後ではない」と宣言した年。
日本全体が成長期へと進むなか、地方の道路や橋も整備が進み、
都市と地方の差が少しずつ縮まりつつあった。
栗山組もまた、その流れの中で力をつけ、
昭和30年代の終わり頃には、事務所の4キロ圏内の工事をほぼ一手に請け負うまでになった。
地域の生活を支える仕事が、栗山組の日々の誇りであった。
地域の誇り
汗で築いた信頼と技術の進化

機械化への挑戦
昭和37年・1962年この頃、工事現場にも近代化の波が押し寄せる。
ブルドーザーや杭打機といった重機が次々に導入されはじめた。
栗山組は、県内でもいち早く機械を取り入れ、効率化と安全性を追求した。
その先進的な姿勢が評価され、県の指名業者として認可を受ける。
以後、県や市の公共工事を数多く担うようになり、信頼と実績を積み重ねていった。


高度成長の波とともに
昭和39年・1964年昭和39年、東京オリンピック。
日本中が活気に満ち、都市部ではインフラ整備が急ピッチで進められていた。鳥取にもその好景気の波が押し寄せ、大型工事が次々と動き出す。
栗山組はゼネコンとの取引が増える中、自らの力で立ち向かうために新たな決断を下す。
石油スタンド、砕石場、ブロック工場を次々と設立。
外注に頼らず、すべてを自社でまかなえる体制を築き上げた。
「地域に根ざし、地域の力でつくる」
―その信念が形となった瞬間であった。
志を継ぐ
地域に根ざした建設のこころ

地域に根を下ろして
昭和40年代〜50年代昭和40年、土木工事業者のA級認定を取得。
以後、昭和40年代から50年代にかけて、
栗山組は数多くの現場で汗を流し、着実にその地位を確立していった。
地域の発展とともに歩んだその軌跡は、地元の人々に深く刻まれている。

地元に刻まれた功績
昭和59年・1984年昭和59年。
長年の地域貢献が称えられ、栗山 虎蔵の銅像が建立された。
それは単なる記念碑ではなく、
戦後の荒れ地に希望を築き上げたひとりの職人の生きた証だった。
今もなお、その志は受け継がれ、
栗山組は「地域とともに生きる」建設会社として歩み続けている。
